家族葬・直接葬から一般葬まで幅広く従事してきた元葬儀社スタッフのつぶやき
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いよいよ秋と言うより冬に近づきつつある今日この頃。
昨日、我が家の給湯器が故障、冷たい水で朝シャンしたにしぐちです。
さて今回、ご紹介する、奈良町観光スポットは、奈良町とは切っても切れない
お寺、元興寺です(奈良市中院町11)
元興寺(がんごうじ)は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院で
前身は6世紀末蘇我馬子によって開かれた法興寺(飛鳥寺)でしたが、平城遷都に
伴い今の地に移転され名も元興寺と改められました。
奈良時代の元興寺は三論宗と法相宗の道場として栄え、東大寺や興福寺と並ぶ
大伽藍を誇っていたそうです。
寺域は南北4町(約440メートル)、東西2町(約220メートル)と南北に細長く、興福寺
の南にある猿沢池の南方、今日「奈良町(ならまち)」と通称される地区の大部分が
元は元興寺の境内であったといいます。
猿沢池南東側にある交番のあたりが旧境内の北東端、奈良市音声館のあたりが
旧境内の南西端にあたると言われています。
広大な寺域には、金堂・講堂・塔・僧房などが立ち並んでいたそうですが、奈良に
おいては東大寺、興福寺が勢力を増す一方で、元興寺は平安時代後半あたりから
徐々に衰退していったそうです。
11世紀前半の「堂舎損色検録帳」という史料にでは、金堂をはじめとする元興寺の
伽藍は、この頃には荒れ果てて見る影もなかったといいます。
現在は僧坊の一画が唯一現存しています。
極楽坊はかつての元興寺僧坊の一部で、鎌倉時代に極楽堂〔国宝〕と禅室〔国宝〕
に改築されたました。
中世以来庶民の信仰を集め、境内から無数の石仏と民俗資料が発見されています。
収蔵庫には奈良時代の木造五重小塔〔国宝〕木造阿弥陀如来坐像・智光曼陀羅図
庶民信仰資料〔各重文〕などが多数保存されています。
現在、国宝五重小塔・禅室・本堂では、11月7日まで(重要文化財 智光曼陀羅)
を特別開扉されているそうです。
天気がよければ、一度散策されてはいかがでしょうか。
なら公園で食べるわらびもちは格別ですよ。(^^)
昨日、我が家の給湯器が故障、冷たい水で朝シャンしたにしぐちです。
さて今回、ご紹介する、奈良町観光スポットは、奈良町とは切っても切れない
お寺、元興寺です(奈良市中院町11)
元興寺(がんごうじ)は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院で
前身は6世紀末蘇我馬子によって開かれた法興寺(飛鳥寺)でしたが、平城遷都に
伴い今の地に移転され名も元興寺と改められました。
奈良時代の元興寺は三論宗と法相宗の道場として栄え、東大寺や興福寺と並ぶ
大伽藍を誇っていたそうです。
寺域は南北4町(約440メートル)、東西2町(約220メートル)と南北に細長く、興福寺
の南にある猿沢池の南方、今日「奈良町(ならまち)」と通称される地区の大部分が
元は元興寺の境内であったといいます。
猿沢池南東側にある交番のあたりが旧境内の北東端、奈良市音声館のあたりが
旧境内の南西端にあたると言われています。
広大な寺域には、金堂・講堂・塔・僧房などが立ち並んでいたそうですが、奈良に
おいては東大寺、興福寺が勢力を増す一方で、元興寺は平安時代後半あたりから
徐々に衰退していったそうです。
11世紀前半の「堂舎損色検録帳」という史料にでは、金堂をはじめとする元興寺の
伽藍は、この頃には荒れ果てて見る影もなかったといいます。
現在は僧坊の一画が唯一現存しています。
極楽坊はかつての元興寺僧坊の一部で、鎌倉時代に極楽堂〔国宝〕と禅室〔国宝〕
に改築されたました。
中世以来庶民の信仰を集め、境内から無数の石仏と民俗資料が発見されています。
収蔵庫には奈良時代の木造五重小塔〔国宝〕木造阿弥陀如来坐像・智光曼陀羅図
庶民信仰資料〔各重文〕などが多数保存されています。
現在、国宝五重小塔・禅室・本堂では、11月7日まで(重要文化財 智光曼陀羅)
を特別開扉されているそうです。
天気がよければ、一度散策されてはいかがでしょうか。
なら公園で食べるわらびもちは格別ですよ。(^^)
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